“繰(く)” の例文
彼女に云わせれば、こうして早く帰るのも、あんなに遅くなった昨日(きのう)の結果を、今度は繰(く)り返(かえ)させたくないという主意からであった。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
或る文字を引かうとして英和辭典をバラ/\と繰(く)りながら、偶然開かれたページの Opera といふ文字に目がとまつた時、私は
かめれおん日記 (旧字旧仮名) / 中島敦(著)
「家(うち)へいったら、にわとりを三羽(ば)やるぞ。」と、与助(よすけ)は、ちょうど念仏(ねんぶつ)を唱(とな)えるように、同(おな)じことを繰(く)り返(かえ)していいながら歩(ある)きました。
おおかみと人 (新字新仮名) / 小川未明(著)
吾々(われ/\)は覺醒(かくせい)せりと叫(さけ)ぶひまに、私達はなほ暗の中をわが生命(いのち)の渇(かわ)きのために、泉(いづみ)に近(ちか)い濕(しめ)りをさぐる愚(おろ)かさを繰(く)りかへすのでした。
冬を迎へようとして (旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
サルオガセは猿麻桛(サルオガセ)の意、この麻桛(オガセ)は績んだ麻を纏い掛けて繰(く)る器械であるが、このサルオガセの場合は麻糸(おいと)の意として用いたものだ。
植物一日一題 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
二度(ど)、三度(ど)この祈(いの)りを繰(く)りかえして居(い)る内(うち)に、私(わたくし)の胸(むね)には年来(ねんらい)の命(みこと)の御情思(おんなさけ)がこみあげて、私(わたくし)の両眼(りょうがん)からは涙(なみだ)が滝(たき)のように溢(あふ)れました。
縁側もない破屋(あばらや)の、横に長いのを二室(ふたま)にした、古び曲(ゆが)んだ柱の根に、齢(よわい)七十路(ななそじ)に余る一人の媼(おうな)、糸を繰(く)つて車をぶう/\、静(しずか)にぶう/\。
二世の契 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
豚はそのあとで、何べんも、校長の今の苦笑やいかにも底意のある語(ことば)を、繰(く)り返し繰り返しして見て、身ぶるいしながらひとりごとした。
フランドン農学校の豚 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
しかし、お君が翌年の三月男の子を産むと、日を繰(く)ってみて、ひやっとし、結婚してよかったと思った。生れた子は豹一と名づけられた。
雨 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
此室(ここ)が宜(よ)かろうという蔵海の言(ことば)のままその室の前に立っていると、蔵海は其処(そこ)だけ雨戸を繰(く)った。庭の樹〻(きぎ)は皆雨に悩んでいた。
観画談 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
彼がそこに立つて一枚一枚と戸を繰(く)つて行くと、戸の走るその音が、野面の方へ重く這つて行つて、そこで空虚に反響して居た。
顳顬(こめかみ)に即効紙(そっこうし)をはって、夜更(よふ)けまで賃仕事にいそしむ母親の繰(く)り言(ごと)を聞くと、いかなる犠牲も堪(た)えなければならぬといつも思う。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
と繰(く)り返(かえ)し教えている。しかして人生の戦争においては、太く短く世を渡るを望む者あるも、望み通りになるやならぬや誰も保証出来ぬ。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
遠い過去のようでもあり、つい昨日(きのう)のような心地もするが、正しく指で繰(く)ってみると、それは去年の春三月十四日の黄昏(たそが)れの事であった。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
三河(みかわ)の宝蔵寺(ほうぞうじ)産の麻の上物を酢煮(すに)にして、三繰(く)りにしたのを彼(あ)の家(うち)では用いているのだが、成程これは普通のとは違って丈夫だ
死剣と生縄 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
行者に教へられた時、弥助夫婦はすぐに其日(そのひ)を繰(く)つてみて、それが十三夜の前日に当ることをあらかじめ知つてゐたのである。
長いホームを歩いている間中、与一は同じ事を何度も繰(く)り返した。私は、そんな優しい言葉をかけられると、妙に胸が詰った。
清貧の書 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
されど夜晝紡(つむ)ぐ女神(めがみ)は、クロートが人各〻のために掛けかつ押固(おしかた)むる一束(たば)を未だ彼のために繰(く)り終らざるがゆゑに 二五—二七
神曲:02 浄火 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
ところがこの後妻は非常なしっかり者で、家政の遣(や)り繰(く)りにも長じていたので、大叔父の家の生活はますます順調に発達した。
字引を繰(く)り/\やつてみると、手紙も亦(また)造作もなく書けた、尤(もつと)も余り名文でもなかつたかも知れぬが、兎に角意味の通じる程には書けた積りだ。
エスペラントの話 (新字旧仮名) / 二葉亭四迷(著)
平次は空耳に聽きながら、自分の手で戸を一枚々々繰(く)つて見たり棧をおろしたり、心張りや掛金をかけて見たりしました。
銭形平次捕物控:130 仏敵 (旧字旧仮名) / 野村胡堂(著)
私は気を失った兄を膝の上に抱き起したまま、老婦人が始めに呟き、それから又兄が今しがた叫んだ謎の言葉を口の中に繰(く)りかえして見ました。
崩れる鬼影 (新字新仮名) / 海野十三(著)
しかし、頁(ページ)を繰(く)っていって、死神と屍骸で埋められている多くの版画を追うているうちに、法水の眼は、ふとある一点に釘付けされてしまった。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
その苦しい世帯を遣(や)り繰(く)りして、許された時間と経費の範囲内で研究するにしても、場合によってはまた色々意外な拘束の起ることが可能である。
学問の自由 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
素人(しろうと)下宿の二階の一室になった室(へや)の中には、洋燈(ランプ)の石油の泡のような匂いがあって、それがノートのページを繰(く)るたびにそそりと動くのであった。
雀が森の怪異 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
まあ、貴様にしたところで生きていてえつごうもいろいろあろうが、ここは一つ万障(ばんしょう)繰(く)り合わせて俺の手にかかってくれ
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
すると中では、かすかな破(やぶ)れ行灯(あんどん)の火(ほ)かげで、一人(ひとり)のおばあさんがしきりと糸(いと)を繰(く)っている様子(ようす)でしたが、その時(とき)障子(しょうじ)の破(やぶ)れからやせた顔(かお)を出(だ)して
安達が原 (新字新仮名) / 楠山正雄(著)
そんな事を繰(く)り返している内に、僕はだんだん酒を飲むのが、妙につまらなくなって来たから、何枚かの銭(ぜに)を抛(ほう)り出すと、匇々(そうそう)また舟へ帰って来た。
奇遇 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
これは診療カードを繰(く)れば造作もなく分りました。病名は抑鬱(よくうつ)症でした。軽度だが慢性に近いとも書いてありました。
死児変相 (新字旧仮名) / 神西清(著)
この舟の中で、罪人とその親類の者とは夜どおし身の上を語り合う。いつもいつも悔やんでも返らぬ繰(く)り言(ごと)である。
高瀬舟 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
京野等志は、弟の机の上に、学校のノートが一冊投げ出してあるのを、ふと拾いあげてパラパラと頁を繰(く)つてみた。
光は影を (新字新仮名) / 岸田国士(著)
その晩、お美代が隣の風呂から帰って来た時、お婆さんは雨戸を繰(く)り開(あ)けて、縁側に蹲(しゃが)んでいた。月光に濡れて、お婆さんの顔はなお、一入(ひとしお)蒼白かった。
蜜柑 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
米友は竿の先を手許(てもと)に繰(く)って、五色の網をキリキリと手丈夫に締め直すと、ヒューとまた鼻面(はなづら)に飛んで来たのを、鏡でも見るようにしてハッタと受けて
大菩薩峠:06 間の山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
心づいて有り合わせた団扇(うちわ)を取り背中の方からあおいでやるとそれで納得(なっとく)したようであったが少しでもあおぎ方が気が抜けるとすぐ「暑い」を繰(く)り返(かえ)した。
春琴抄 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
丈「千円の方は遅くも来月中旬までには相違なく算段するよ、これだけの構(かまえ)をしていても金のある道理はない、七ヶ年の間皆遣(や)り繰(く)りでやって来たのだからよ」
爺さんの繰(く)り言(ごと)は、まるで耳に入らないもののように、鶏は強く羽ばたきしては舞い逃げよう、とする。
南方郵信 (新字新仮名) / 中村地平(著)
その帰りに空模様を見ようとして、一枚繰(く)った戸がそのままになっているので、三尺ほどの幅だけ障子が黄色く光っていた。それが部屋をよけい小暗く感じさせた。
星座 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
私はいま古いアルバムの頁でも繰(く)るように、記憶の中にある順路帳を一枚一枚めくって行こうと思う。
安い頭 (新字新仮名) / 小山清(著)
しばらくいっしょに集ってじっとしている。やがて片端から二三匹ずつ繰(く)りだして、列を作って、小早に日の当る方へと泳いで行く。ちらちらと腹を返すのがある。
千鳥 (新字新仮名) / 鈴木三重吉(著)
古びた手帳を繰(く)ると、明治廿二(にじゅうに)年の秋、私は東北の或(ある)聯隊(れんたい)に軍曹をして奉職していたことがあった。丁度(ちょうど)その年自分は教導団を卒業した、まだうら若い青年であった。
雪の透く袖 (新字新仮名) / 鈴木鼓村(著)
今度の継母は父と同じ藩の然るべき武士の家から出ていたので、そういう窮乏組の女たちがよく尋ねて来て、繰(く)り言(ごと)をいって、為すこともなく一日を暮らして行った。
繰(く)り返(かへ)しラランの名(な)を呼(よ)んだが、その返事(へんじ)がないばかりか、冷(つめ)たい霧(きり)のながれがあたりいちめん渦巻(うづま)いてゐるらしく、そのために自分(じぶん)のからだはひどく煽(あふ)られはじめた。
火を喰つた鴉 (新字旧仮名) / 逸見猶吉(著)
あの一つの旋律(メロディ)が繰(く)り返され繰り返されているうちに曲が少しずつ展開して行く、それがまた更に稽古をしているために三四回ずつひとところを繰り返されているので
美しい村 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
君(きみ)が行(ゆ)く道(みち)の長路(ながて)を繰(く)り畳(たた)ね焼(や)き亡(ほろ)ぼさむ天(あめ)の火(ひ)もがも 〔巻十五・三七二四〕 狭野茅上娘子
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
真夜中(まよなか)にごろ/\と雷が鳴った。雨戸の隙(すき)から雷が光った。而して颯(ざあ)と雨の音がした。起きて雨戸を一枚繰(く)って見たら、最早(もう)月が出て、沼の水に螢(ほたる)の様に星が浮いて居た。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎、徳冨蘆花(著)
お初(はつ)と子供(こども)は、袖子(そでこ)の前(まえ)で、こんな言葉(ことば)をかわしていた。子供(こども)から呼(よ)びかけられるたびに、お初(はつ)は「まあ、可愛(かわい)い」という様子(ようす)をして、同(おな)じことを何度(なんど)も何度(なんど)も繰(く)り返(かえ)した。
伸び支度 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
あけみがそれを持ってくると、克彦は証文の束をパラパラと繰(く)って見た。ゆっくり調べているひまのないのが残念だ。彼の知人の名も幾人かあった。全体では大した金額だ。
月と手袋 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
後世この心を「人の恋路を邪魔する鳥は犬に食われて死ぬがよい」とドド繰(く)ったものじゃ。
手筐(てばこ)の底に祕(ひ)め置きし瀧口が送りし文、涙ながらに取り出して心遣(こゝろや)りにも繰(く)り返せば、先には斯くまでとも思はざりしに、今の心に讀みもて行く一字毎に腸(はらわた)も千切(ちぎ)るゝばかり。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
薄紗(ヴェール)の幕が再び次々に繰(く)り上って行く。場面は、竹林を出たばかりの所で、小高い丘陵(きゅうりょう)の一端の感じ。遠い丘陵が幾つか連なっているのが夜空に遥かに黒く浮んで見える。——
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)