“侘(わ)” の例文
夜の闇(やみ)は雨に濡(ぬ)れた野を覆(おお)うていた。駅々の荒い燈火は、闇に埋もれてる涯(はて)しない平野の寂しさを、さらに侘(わ)びしくてらし出していた。
峠路の駕(かご)に興じたり、雨の宿りを侘(わ)びしがったり、高原の道に馬をせがんだりして、いつか知らず故郷の土を踏んでしまったのである。
日本婦道記:桃の井戸 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
………夜が次第に更(ふ)けて行く中で、猫はかすかに鼾(いびき)を掻(か)き、人は黙々と縫い物をしている。侘(わ)びしいながらもしんみりとした場面。
猫と庄造と二人のおんな (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
眠りがたい夜が復(ま)た続いた。どうしてこんなことが起って来たろうと自分に不審に思うほどの心持で岸本は節子の来るのを待ち侘(わ)びた。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
その家の軒端の幟(のぼり)が、ばたばたばたばたと、烈風にはためいている音が聞えて淋しいとも侘(わ)びしいとも与兵衛が可愛そうでならなかった。
音に就いて (新字新仮名) / 太宰治(著)
君子は明るを待ち侘(わ)びて、いつになく身支度さへもそこそこにおのが上より友の上、案じらるるままに車を急がせ花子の方をおとづれぬ。
当世二人娘 (新字旧仮名) / 清水紫琴(著)
炉塞(ろふさぎ)の場合、そこに坐っている客も主人も共に老人で、茶を啜(すす)りながら閑談に耽(ふけ)っている、というようなところらしい。侘(わ)びた趣である。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
けれども……皷動(こどう)が全(まつた)く靜(しづ)まつて、血(ち)の流(なが)れがもとのゆるやかさにかへつた頃(ころ)、極(きは)めて靜(しづ)かに歩(あゆ)み寄(よ)つて來(く)るもの侘(わ)びしさを
日の光を浴びて (旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
崖の崩れ、埋れた池——何といふ侘(わ)びしさかな。本堂の仏殿の前に立つて、礼拝(らいはい)をしたが、腹の底から瞼(まぶた)の熱くなる気がした。
椎の若葉 (新字旧仮名) / 葛西善蔵(著)
一旦出たが最後、なん時戻って来るか判らないのがいつもの癖と知っていながら、お菊は今日に限って主人の戻りが待ち侘(わ)びしく思われた。
番町皿屋敷 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
或日の事、書斎で例のごとくペンの音を立てて侘(わ)びしい事を書き連(つら)ねていると、ふと妙な音が耳に這入(はい)った。縁側でさらさら、さらさら云う。
文鳥 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
はずるる糸は(侘(わ)び人の涙の玉の緒とぞなりぬる)とだけ、あとの声は消えたまま非常に悲しくなったふうで奥へはいったことが感じられた。
源氏物語:48 椎が本 (新字新仮名) / 紫式部(著)
また頭巾といふ季を結びたるは冬なれば人の零落したる趣に善く副(そ)ひ、また頭巾を冠(かぶ)りて侘(わ)びたる様子も見ゆる故なり。
俳諧大要 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
ところが、その瞬間、砲声を聴くと思いのほか、意外にも、侘(わ)びし気な合唱の声が、軍船の中から漏れてきた。
紅毛傾城 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
このごろの茶室は、ブルジョア趣味の贅沢なものになっているが、当時はほんとの侘(わ)びの境地で、草葺きの軒は傾き、文字どおりの竹の柱が、黒く煤けている。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
村の顔役として村長とホセ警官と小学校長とがこの大先生のお側に侍(はんべ)ってサービス至らざるなく、大先生の鑑定を一刻千秋の思いで待ち侘(わ)びているのであったが
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
むさくるしさもお厭いなく『私どもの侘(わ)び住居』を訪ねて來てくださる思召しさえあれば、彼女は彼を『護り神』としてお迎え申し上げる、なんとなれば彼女は
庸三は騒がしい風の音を聴(き)きながら、葉子の帰るのを待ち侘(わ)びていた。憂鬱(ゆううつ)な頭脳(あたま)の底がじゃりじゃりするようで、口も乾ききっていた。彼は肉体的にも参っていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
その黴(かび)の生えそうなほど陳腐な欧羅巴出来の享受主義に、若干の東洋文人風な拗(す)ねた侘(わ)びしさを加味した・極めて(今から考えれば)うじうじといじけた活(い)き方である。
狼疾記 (新字新仮名) / 中島敦(著)
都から来た人たちの中、何時までこの山陰に、春を起き臥すことか、と侘(わ)びる者が殖えて行った。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
それはそれでまた私を侘(わ)びしがらせた。母屋(おもや)の藤棚(ふじだな)から、風の吹くごとに私のところまでその花の匂(におい)がして来た。その藤棚の下では村の子供たちが輪になって遊んでいた。
美しい村 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
洪水(でみづ)は急(きふ)なりけり。背戸續(せどつゞ)きの寮屋(はなれや)に、茅屋(かやや)に侘(わ)ぶる風情(ふぜい)とて、家(いへ)の娘(むすめ)一人(ひとり)居(ゐ)たる午(ひる)すぎよ。
婦人十一題 (旧字旧仮名) / 泉鏡花、泉鏡太郎(著)
「それには我ら永い間考え侘(わ)びていたところ、見かけるところ以前よりも美しくなられた。」
津の国人 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
日和田というのは飛騨の国内ではあるけれども、信濃、木曾御岳の境に当り、その辺の村の家々に飼われた馬は、毎朝、夜の明くるを待ち侘(わ)びて、厩(うまや)の戸をハタハタと叩く。
大菩薩峠:30 畜生谷の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
かれその日子(ひこ)ぢの神二一侘(わ)びて、出雲より倭(やまと)の國に上りまさむとして、裝束(よそひ)し立たす時に、片御手は御馬(みま)の鞍に繋(か)け、片御足はその御鐙(みあぶみ)に蹈み入れて、歌よみしたまひしく
玉を置くとも羞かしからぬ設けの席より、前は茶庭の十分なる侘(わ)びを見せて、目移りゆかしくここを価値(ねうち)の買いどころと、客より先に主人の満足は、顔に横撫での煤(すす)を付けながら
書記官 (新字新仮名) / 川上眉山(著)
(吉(よ)いと思った夢占が、ほんとは凶夢だったのかしれない。それで災難を負うておしまいなされた——)と、そんなふうに、あどけない解釈をして、思い侘(わ)びているかもしれない。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それはこの上墜(お)ちようもない世の底に身を置く泰(やす)らかさと現実離れのした高貴性に魂を提げられる思いとが一つに中和していた。これを侘(わ)びとでもいうのかしらんと鼈四郎は考える。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
そして俎(まないた)がわりに拾ってきた板のうえへ鉈で鰹節をかいてくれたが私は雑煮は今度のことにして餅を焼いてたべる。かようにしてこの侘(わ)び住居には不相応な珍味のかずかずがそなわった。
島守 (新字新仮名) / 中勘助(著)
紫の色に綾(あや)なす山水が描かれ、前後各一面には濃き赤を以て葉状の模様を描く、その形美しく色美しく筆美しく、今や楽しく快く机上の務めを果そうとて吾々を待(ま)ち侘(わ)びる風情が見える。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
内へはいって見ると、二間(ま)きりしかなかった。侘(わ)びしい家具の配置であった。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
彼の帰っていく東京の家には、年老いた父が病床で彼を待ち侘(わ)びていた。
暴風雨に終わった一日 (新字新仮名) / 松本泰(著)
侘(わ)びしい露地の明るさの果て、本郷の家並が曲りくねって連なり、戸毎に日章旗がひらひらとはためいている。祝祭日なのである。日の光さす道を曲りながら、霊柩車(れいきゅうしゃ)は既に粛々(しゅくしゅく)と動き出した。
風宴 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
秋から冬になって時雨(しぐ)れた日もたびたびあった。そのたびたびの時雨に逢(あ)ったということも住み馴れた心持にぴったりと当て嵌(はま)るものだ。侘(わ)び住んで居る静かな人の境涯(きょうがい)がおのずから描かれておる。
俳句への道 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
共に冬の日の薄ら日和を感じさせ、人生への肌寒い侘(わ)びを思わせる。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
合羽を脱ぎて、下手を向き畳む。この内小金吾頻(しきり)に侘(わ)ぶ。
大隅学士は、下宿で、佐々の帰りを待(ま)ち侘(わ)びていた。
地球盗難 (新字新仮名) / 海野十三(著)
子供等は私の帰りを待侘(わ)びて、前の日から汽車の着く度に、停車場まで迎えに出たという。東京の話は家のものの心を励ました。
芽生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
その次には、湿っぽい部屋(へや)の中に身を落ちつける侘(わ)びしい仕事があった。低い空の蒼白(あおじろ)い反映のために、部屋はいっそう陰鬱になっていた。
ちゃんと長兄の侘(わ)びしさを解していながら、それでも自身の趣味のために、いつも三兄は、こんな悪口を言うのでした。
兄たち (新字新仮名) / 太宰治(著)
彼女が未(いま)だに再縁もせず、猫(ねこ)を相手に侘(わ)びしく暮らしていると聞いては、一般の同情が集まるのは無論のこと、庄造だって悪い気持はする筈がなく
猫と庄造と二人のおんな (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
むかし杜若(かきつばた)のあった跡だという、丘ふところの小さな池をめぐり、業平塚(なりひらづか)なども見てやや疲れた彼は、すぐ近くにひと棟の侘(わ)びた住居のあるのをみつけ
日本婦道記:墨丸 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
この侘(わ)びしい空の下へ濡(ぬ)れに出る宗助に取って、力になるものは、暖かい味噌汁(みそしる)と暖かい飯よりほかになかった。
門 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
その色が赤ければ赤いだけ、侘(わ)びた趣が増すのである。言葉は雅馴であって、内容に一種の新しい感じがある。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
好色な風流男というお名が拡(ひろ)まっていて、好奇心からいいようにばかり想像をしておいでになる方へ、はなやかな世間とは没交渉のような侘(わ)び居をするものが
源氏物語:48 椎が本 (新字新仮名) / 紫式部(著)
町はラッシュアワアだったが、秋の侘(わ)びしい光線が一層この十字街を無秩序なものにしていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
冷(ひ)え/″\として硝子(がらす)のそとに、いつからか糸(いと)のやうに細(こま)かな雨(あめ)が音(おと)もなく降(ふ)つてゐる、上草履(うはざうり)の靜(しづ)かに侘(わ)びしい響(ひゞき)が、白衣(びやくえ)の裾(すそ)から起(おこ)つて、長(なが)い廊下(らうか)を先(さき)へ/\と這(は)うて行(ゆ)く。
悔 (旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
「和歌(うた)をやるか。では、わしにもすこし古今調(こきんちょう)を手ほどきしてくれい。万葉もよいが、いっそこう侘(わ)びた草庵の主(あるじ)になってみると、やはり山家集あたりの淡々としたところがよいの」
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
姫はもう何もかも考えなくなって、ひたすら昭青年の来るのを待ち侘(わ)びている。自分では、ただ頼みにする人、有難い人と思っている積りだが、心の底ではもう恋が成熟しきっている。
鯉魚 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
楽しげに銀鱗(ぎんりん)を翻(ひるが)えす魚族(いろくず)どもを見ては、何故(なにゆえ)に我一人かくは心怡(たの)しまぬぞと思い侘(わ)びつつ、渠(かれ)は毎日歩いた。途中でも、目ぼしい道人(どうじん)修験者(しゅげんしゃ)の類は、剰(あま)さずその門を叩(たた)くことにしていた。
悟浄出世 (新字新仮名) / 中島敦(著)