“腑(ふ)” の例文
それにしてもあんな方角に、あれほどの人家のある場所があるとすれば、一たい何処(どこ)なのであろう。私は少し腑(ふ)に落ちぬ気持がする。
Sさんは一寸(ちょっと)腑(ふ)に落ちないような表情をしたが、K氏あてに手紙を書いてくれ、お百姓さんに対しては私のために礼を述べてくれた。
遁走 (新字新仮名) / 小山清(著)
「なるほどこれァ種員さんのいいなさる通り。恐れながら手前なぞも今度の御趣意についちゃ随分と腑(ふ)に落ちない事が御座います。」
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
しかし私(わたくし)は三途(ず)の川(かわ)らしいものを渡(わた)った覚(おぼ)えはない……閻魔様(えんまさま)らしいものに逢(あ)った様子(ようす)もない……何(なに)が何(なに)やらさっぱり腑(ふ)に落(お)ちない。
博士はまだ意識混沌(こんとん)としているので、あのような恰好をしているのであろうが、両眼を大きく明けているのが、ちと腑(ふ)に落ちかねる。
鞄らしくない鞄 (新字新仮名) / 海野十三(著)
巷説(こうせつ)の魯迅の転機は、私にはどうしても少し腑(ふ)に落ちないところがあるので、敢(あ)えて苦手の理窟を大骨折りで述べて見た次第である。
惜別 (新字新仮名) / 太宰治(著)
が、胃の腑(ふ)が丈夫な上、その頃の隅田川は、底の小石が讀めるほど水が綺麗だつたので、大した神經を病む必要もなかつたのです。
なにかひどく腑(ふ)に落ちかねたような顔つきで、鼻をヒクヒクさせながら、人混(ひとご)みをかきわけるようにして、出口のほうへ歩いて行った。
香水紳士 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
その処断の片手落ち、というよりもあまりにも懸隔の甚しいことが義に勇む江戸町民の心に何か腑(ふ)に落ちないものをかんじさせた。
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
「僕、どうもこの頃のお前の素振(そぶり)腑(ふ)に落ちんねんけど、何ぞ訳あるのん違うか」いうて、ふと思いついたように尋(た)ンねますのんで
卍 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
妻の容子がドウも変(へん)になりました。私も気をつけて見て居ると、腑(ふ)に落ちぬ事がいくらもあるのです。主人が馬車で帰って来ます。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎、徳冨蘆花(著)
止まれ! 早く、額の汗が乾かないうちに、眼を空に転じ、胃の腑(ふ)から眩暈(めまい)がやってくる前に、崇高な思念を喚(よ)び起こすことを努めろ。
多少腑(ふ)に落つるところはあったけれども、袖切坂の上でお角が言った異様な一言(ひとこと)は、どうも米友には解くことができませんでした。
大菩薩峠:14 お銀様の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
どうもまだ腑(ふ)に落ちないところがある。いったい、会いもしない老人が、どうして明智の変装を看破することができたのであろう。
人間豹 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
「——山へ」と、眼を上げたが、意地わるく、胃の腑(ふ)は空になっていた、それに、炭焼や木樵(きこり)まで、自分の顔を知らない者はない。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「それを膈(かく)(鶴(かく))の病いというんだ」こんどは又左衛門が冷やかした、「胃の腑(ふ)に癌(がん)の出来るやつさ、藤蔓(ふじづる)の瘤(こぶ)をやぶれば治る」
ひやめし物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
自然腑(ふ)におちなかった点も多かろうと思うので、懇談にはいるまえに、念のため、もう少しくだいて私の気持ちを話しておきたいと思う。
次郎物語:05 第五部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
と小宮山は且つ慰め、且つ諭したのでありまする、そう致しますと、その物語の調子も良く、取った譬(たとえ)も腑(ふ)に落ちましたものと、見えて
湯女の魂 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
坂井の奥さんが叮嚀(ていねい)に説明してくれたそうであるが、それでも腑(ふ)に落ちなかったので、主人がわざわざ半切(はんきれ)に洒落(しゃれ)と本文(ほんもん)を並べて書いて
門 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
この乞食(こじき)が三日も飯(めし)を食わぬときにいちばんに痛切に感ずるものは胃(い)の腑(ふ)である。握飯(にぎりめし)でも食いたいというのが彼の理想である。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
男だけならば色仕掛けという狂言かとも思うが、そのなかには女もいる。いい年をした爺さんも婆さんもある。それがどうも腑(ふ)に落ちねえ。
半七捕物帳:26 女行者 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
もつとも、おれがこんなことを言ひ出したのが、お前は腑(ふ)におちないんだらう。なにそれには、おれの方にだつて、ちよつと考へがあるんだ。
悪魔の宝 (新字旧仮名) / 豊島与志雄(著)
二人の青年にひょっとすると、これは二百年位前のものかも知れないよというと、二人は腑(ふ)に落ちぬという面持(おももち)をしていた。
土塊石片録 (新字新仮名) / 伊波普猷(著)
「そういうことは鶴吉って男も、とうに知っているだろうに、化け物屋敷を調べないとは、どうにも俺には腑(ふ)におちないよ」
怪しの者 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
腑(ふ)に落ちないとお思いになるふうである。いったんおさえたものが外へあふれ出たあとは、その勢いで恋も恨みも源氏の口をついて出てきた。
源氏物語:19 薄雲 (新字新仮名) / 紫式部(著)
過ちは改むるに憚る勿れとは古哲の金言、父が言葉腑(ふ)に落ちたるか、横笛が事思ひ切りたるか。時頼、返事のなきは不承知か
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
その夜、——なんだか妙に疲れて腑(ふ)抜けみたいになって、私は大森の家へ帰るのが億劫(おっくう)になり、アパートに泊ることにした。
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
「人のことって、兄貴のことじゃあねえか。それあそうと、おめえが磯屋さんの妹ってえのが、おれにあまだ腑(ふ)に落ちねえ」
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
が、老人はわれ/\の腑(ふ)に落ちないやうな顔付きには一向無頓着で、僕が相当中華語のわかる男だと見てとると、一層隔てなく饒舌(しやべ)りつゞけた。
南京六月祭 (新字旧仮名) / 犬養健(著)
胃の腑(ふ)へ届く食物は、そのまま直ちに消化されて、血管を少女のような元気さと華(はな)やかさとで駆け回るように感じられた。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
まったく、これはクルトが嘘を言っているか……、それとも、隠し事でもしてない以上、腑(ふ)に落ちないことだ。と、彼はいきなり語気をつよめ
人外魔境:08 遊魂境 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
私の引用する新聞記事は、これで終りですが、もちろんこの記事の中にも、腑(ふ)に落ちかねるものが、沢山見受けられます。
棚田裁判長の怪死 (新字新仮名) / 橘外男(著)
焼酎と胡瓜(きゅうり)は尽(ことごと)く吐(は)き出したが、同時に食った牛肉は不思議にも出て参らず、胃の腑(ふ)もなかなか都合好く出来たものかな。
本州横断 癇癪徒歩旅行 (新字新仮名) / 押川春浪(著)
「不義した女を出すことが出来ないような腑(ふ)ぬけと、一生暮そうとは思わない。私(わし)の方から出ていくからそう思うがいい」
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
クねずみはだんだん四方の足から食われて行って、とうとうおしまいに四ひきの子猫は、クねずみの胃の腑(ふ)のところで頭をコツンとぶっつけました。
クねずみ (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
そこまで想像を持って行って見なければ、彼女の書いて寄す手紙はどうしても岸本の腑(ふ)に落ちないふしぶしが有った。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
穂積の親類は勿論(もちろん)、知らぬ人まで讃(ほ)めて、羨(うらや)んで、妬(ねた)んで、騒いでいる中に、ただ清吉爺いさん一人は、若い主人の素振(そぶり)が腑(ふ)に落ちないように思った。
蛇 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
そうして、腹掛けの饅頭を、今や尽(ことごと)く胃の腑(ふ)の中へ落し込んでしまった馭者は、一層猫背を張らせて居眠り出した。
蠅 (新字新仮名) / 横光利一(著)
もし読者のうちでこの謎の意味を自分の腑(ふ)に落ちるようにはっきり解説してくれる人があったら有難いと思うのである。(昭和九年八月『中央公論』)
喫煙四十年 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
行きたいけれど行けぬ。お前に会わす顔のない母です。恨(うら)んでくれるな。腑(ふ)に落ちかねる手紙だった。手紙と一足違いに意外にも安二郎が迎えに来た。
雨 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
これがどうして「喜劇」として通らないのであるか。チェーホフとしては何としても腑(ふ)に落ちなかったに違いない。なるほどロパーヒンは成上り者だ。
腑(ふ)におちかねるようにひねりはじめた首の前へ、名人がこれを見ろといわぬばかりで、にやりとやりながら黙ってさし出したのは、先刻のあの書面です。
これをみてなにがなにやらさっぱり腑(ふ)に落ち兼ねているのが現代社会知識層の大多数である。そしてこの両者は勝負なしの角力を大分永々と続けている。
現代茶人批判 (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
彼は朝夕(あさばん)に散策(さんぽ)もすれば、写生にも出てそのあたりの地理に精(くわ)しかったので、牧場のあるのが腑(ふ)におちなかった。
馬の顔 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
彼はクリストフのやさしい態度に驚かされ、その急な変わり方が腑(ふ)に落ちなかった。翌日になってようやく、クリストフが決闘したことを新聞で知った。
弟は腑(ふ)におちないやうな顔をしてぢつと私の顔を見てゐました。私は弟とそんな話をしてゐるのもつまらなくなつたので再び紙切ナイフを取り上げました。
白痴の母 (新字旧仮名) / 伊藤野枝(著)
「馬鹿ア言え。そんな腑(ふ)ぬけな田村先生じゃアねえ。——おれは受け合っておくが、お前のように気の多い奴は、結局ここを去ることが出来ずにすむんだ」
耽溺 (新字新仮名) / 岩野泡鳴(著)
「肉は決して胃(い)の腑(ふ)の要求ばかりじやない。」周三は不圖(ふと)此様なことを考へた。其をきツかけに、彼はまた何時もの思索家(しさくか)となつた。頭は直に曇つて来る。
平民の娘 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
酒でも飲んで面白く騒ごうというだけで、ああして遣(や)ってくるのですと言った人もあるが、私にはまだ腑(ふ)に落ちなかった。幽(かす)かな記憶が私には蘇(よみがえ)ってくる。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
姥(ばあ)は驚きたるなり。浪子も腑(ふ)に落ちぬ事はあれど、言うは伯母なり、呼ぶは父なり、姑(しゅうと)は承知の上ともいえば、ともかくもいわるるままに用意をば整えつ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)